バス停にはまだバスはなくて、乗り場前には、4人ほどが列を作って待ていた。
ぼくはその列の後尾に、当然のように並ぶ。
ぼくが並んで待っていると、坂を下って、だらだらと保護者の人たちがやってきて、これまた当然のようにぼくの列の後ろに整然と列を作って並ぶ。
なんとなく、暇だあというような気分で並んでいると、ぼくの斜め前で本
その言葉にぼくも振り返って後ろを見ると、まあ当然といえば当然なんだけど、よく駅のホームで電車を待つ時のように、三人ぐらいの固まりになって、列が続いていて、その列は、コンクリの塀にぶつかると、ゆるやかなカーブを作って、塀ぞいに続いている。
「まるで習字の一筆書きみたい」と眼鏡の女の子が言った。なるほど、そういえばそんな風に見える。
「ここでは並ばないのよ。みんなただ適当なところで、バスを待っているだけなのよ」と彼女が言うので、「だって、みんないつもこんな風に並んでいる訳だから、まあほとんど無意識でやっているのよね」とぼくは彼女に言った。
「せめてこの学校に来た時ぐらい、列を作ってならばなければいいじゃない」と彼女はあきれたとでもいった表情をして言うので、ぼくはちょっとビックリ
「そんなこと言ったって、普段普通にやっていることを、急に直すなんてことはできないんじゃないの」とぼくは弁解のようなことを言ってしまった。
彼女はもう一度「ここでは並ばなくてもいいのに」と言った。まるでなんて柔軟性のない人たちなんだろうと、大人たちを哀れんでいるように










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でも、
私の思うには、
並んでも並ばなくても、
そんなことどっちでもいいのにと思いますね。
その子も、自由という束縛に繋がれている、
なんて言い過ぎでしょうかね。
ところで、
ようやく、モームの「人間の絆」を読み終えました。
もっと若いときに読みたかったなあ。
コメントありがとう。
ぼくがここで極力描写だけして、
自分の考えを言わなかったのは、
授業参観で、社会科の教師がしたことを、
真似た訳ですね。
つまり読んでくれた人が、
何?って
考えてくれたらいいなあと思って。
この女の子の視点が入ることによって、
今までなんも考えないでしていたことを、
足を留めて、考えるようになる。
それがこの娘の視点の素晴らしいことなんだよね。
ぼくらは、普通、ただ惰性のように、
何の考えもしないで、日常を送っているでしょ。
でも、この娘が言ったことで、自分のしていたことの意味を、考えるようになる。
それこそが優れた小説の機能なのだ。
「気ずき」こそが、小説を読む意味だとでも
言っていい。
だからこの娘の視点こそ、優れて小説的とも言える。
ところでもモームだけれど、
ぼくも学生時代に短編を一編だけ読んで、
もう止めた。
モームは、自分を高身において、他人のことを冷ややかに見るのね。
そいつはまるで、今のテレビのワイドジョーのコメンテイターと同じなのだ。
自分たちは、とても善良で、いい人で、悪いことなんてしない人ってな顔で、悪いことをした人を非難する。
コメンテイターと同じような視点で書かれた小説は、本屋に氾濫してる。
それを読む人は、ワイドショーを興味本位で見ている人と、同じ読者層だろう。
優れた小説とは、まさに書いている本人が、この問題で悩み苦しんで呻吟している小説のことだ。
ドフトエフスキーの小説が今でも、傑作で、読むに値するのは、彼自身が生涯に渡って、悩み続けた問題を、小説にしているからだ。
何程か自分にとって価値がある本を探して読むのは、自分の今までの経験と、審美眼を信じているからです。
それだけをたよりに本を探して読んでいます。
ベストセラーなんて、信じないもの!
いつもの学校ののびやかさが、その列のお陰で変化させられてしまったみたいに思ったのかな。言える相手をみつけられてその子はほっとしたかもしれませんよ。
ところでブログの引越しをしました。こちらをリンクさせて頂きますね。
今後ともよろしくお願いします。
新ブログのアドレス:
http://education-school-life.blogspot.com/
http://days-after-cancer.blogspot.com/
さっそくぼくもリンクしました。
よろしくです。