保坂和志さんの最新のエッセイ集『「三十歳までなんか生きるな」と思っていた』のなかの「冷淡さの連鎖」という章で、保坂さんは高校生のふたりが波にさらわれた事故で亡くなった翌日の朝礼で校長が、「一日も早く日常を取り戻して下さい」と言ったことに、腹を立てていた。
日常を取り戻すという意味は、亡くなった友の死を悼むことより、
勉強が大事」と言っていることじゃないかと、腹を立てている。
日本では「いつまでも悲しんでいると死者が浮かばれないから、早くしっかりしなくちゃ」という言葉が普通に使われているけれど、それじゃ死んだ人が浮かばれないじゃないのと言う。
自分が死んだ時のことを想像しろよ。形だけの葬式だけやって、みんなさっさと仕事やら勉強やらをやりはじめたら、死んだ自分が悲しまないか

。
死者を丁寧に葬り、きちんと喪に服すというのは、人間が人間として存在するための条件なのだと言う。
人間はだた生きているだけじゃなくて、死んだ後も含めた漠然とした広がりをもつものとして人間がある。
そうして、愛する
ペットが亡くなった時に、泣きながら会社に出勤した元同僚に向かって「会社なんか休めと」と言ったエピソードを語る。
他の同僚が、ペットごときで泣きながら出社したという冷ややかなや態度を取っていたなかで、保坂さんがそう言ったことを、その元同僚はずっと覚えていたそうだ。
経済や能率ばかりが優先的になってしまったこの社会で、大切なことはそんなことじゃんなくて、生きているそれ自体が大切なんだよと、彼は断固とした態度で発言する。
死者を悼み、悲しみにくれることは、とどのつまり、自分が亡くなった後に、自分が近親者に、生きている間、大切に思われていた証しじゃないかと思う。
他人の痛みに冷淡な人は、だからとどのつまり、自分も他人から冷淡にされることなのだと理解して欲しい。
我々は経済や能率のために生きている訳じゃない。
我々は、人間という、一個の尊厳を持った生き物として、生きる。そこには、身分や階級や、貧富の差なんて、関係ない。
ひとつひとつの『生』と『死』に、尊厳を持って接しよう。自分もまた、そのように取り扱われたいと思うなら

。