息子が昨日から修学旅行に行った。
京都・奈良の二泊三日の
旅行である。
娘はこのところ、めちゃんこ忙しそうで、今日は友達の家に皆で集まって、運動会で着る応援の特攻服に
刺繍をするから、帰らないとのメール

。
その他、修学旅行の話し合い。(娘の学校の修学旅行は、生徒が行き先を何コースか決めて、行きたいコースの組に入ってから、旅行の様々を話し合って、決定していくらしい。娘は沖縄に行ってから、カヌーで無人島まで行くというコースにしたらしい

)
夏に公演旅行に行くとかで、
中国舞踊の練習を休みの日も学校に行ってやっていてと、聞いているだけでメマイがしそうな程の予定で、大丈夫かいなと思うのだけれど、学校にいられるのも、後一年しかないと、悲痛な声で言うのであった。
卒業した後だって、人生は長いのに、なんでそんなに忙しくしてなくちゃならないのかとこちらは思うのだけれど、今の友達といられるのも後一年しかないのよと、言うのであった

。
で、ぼくはひとりで家にいる

。
で、ぼくはたいしてやる事もない

。
子供たちが大きくなったら、ひとり暮らしになるんだなあと、こんな時はしみじみと思うのである。
保坂和志さんの「カンバセイション・ピース」を再読した。去年読んだ時には分からなかったことが、少し分かったような気がした。
亡くなった人と、そのゆかりの今生きている人たちが、家という場所を通して、交感する。亡くなった人の声が聞こえ、匂いが漂い、影が見え、濃密な気配がする。家の空気全体が、ここで生きて亡くなった人たちの存在そのものとなる。
と書くと、なんだか随分と難しい小説みたいだけれど、それが全然違くって、げらげら笑ってしまう場面ばかりなのだ。
よくこれで小説になっているよなあと、感心しちゃうのだけれど、笑いながら読了すれば、稀に見る傑作と感じられるのが、凄いんだよね

。
開高健の「夏の闇」を数十年ぶりで再読した。そしてやっぱり感歎した。「夏の闇」を読むと、「輝ける闇」を読みたくなって、それも再読した。
この二作は、残るだろうなあと思った。彼のその他の小説が消えていっても、これだけは残るだろうなあと、思った。
「輝ける闇」の最後で、ベトコンが占領していると思われる森の掃討作戦に従っていく場面は、やはり凄いし、作家という存在の業の深さを示しているよね。
二百人の連隊の兵士が、ベトコンの襲撃を受けて、生き残ったのはたったの十七人。
開高健は逃げ惑いながら、撃たれて死んでいくベトナム人の姿を、見続ける。玉に当たって、あっけなく地面に崩れる兵士の姿を、見続ける。
戦争の本当の姿を見続ける。